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ナジャハウス代表 立川広子の半生と想い
代表立川広子の今に至る経緯を振り返り、ナジャハウスとフラメンコへの想いを綴ります。子供の頃の夢
私は大分県の湯布院で生まれました。今でこそ湯布院ブランドで人気の観光スポットですが、50年前はひなびた温泉地で田んぼと畑と温泉以外にはなにもない田舎町だったのです。そんな中で貧しくても、のびのびと育ちました。(身長は伸びませんでしたが)
初舞台(左から2番目)- そして小学校高学年になると、学校から戻り時間があるとなぜかトゥシューズをはきチュチュを着たバレリーナの絵ばかり描いていたのです。踊りといえば盆踊りとフォークダンスぐらいしか知らなかったし、一体何に影響を受けてそんな絵を描き続けていたのでしょう?自分としては全く記憶にないのですが。そして、最近自分が中学2年生の頃に書いていた日記を読み返してみたら、「私は将来ファッションデザイナーになってお店を持ち、たくさんの人のドレスを作りたい」なんて今を預言するような内容を書いていたのにはびっくりしました。そのころから漠然とそのような夢は持っていたようですね。
高校は県下でも有名な進学校に進みましたが、完璧に落ちこぼれ、何の目的も目標も
なく、ひたすら遊んでいました。
- 高校生の時(左)
しかし、学生最後の卒業制作でオリジナル衣装をかなり苦労して作り上げた瞬間に衣装作りの面白さに目覚めたのです!
卒業後はカッティングやデザインの勉強の為に専門学校に入学し、その後、某アパレル会社に就職したのですが、その時に出合ったフラメンコで人生が変わりました。
人生を変える出来事
OL時代は好きなファッションの仕事をしていましたが、なんとなく物足りない日々を過ごしていて、なにか心から打ち込めるものはないかなあ?とずっと考えていました。そんな時です。
何となく友人に付き合う形であるフラメンコ教室でフラメンコというものを体験してみて、その強烈な魅力に一発でノックアウトされ、それからは毎日がフラメンコ三昧の日々が続くことになったのです。
師匠は田中美穂さんといって、先生のようにかっこよく踊れるようになりたい!その一心で踊りに打ち込んでいました。
フラメンコに出会い、自分を体で表現することの深い喜びを知ってからは、今までのチャランポランな生活が色あせて見え自分を表現するための踊りの修練にどんどん没頭していったのです。
最初の試練
私はOLをしながらフラメンコを学んでいましたが、バブリーな時代だったにもかかわらず、給料が安く手取りで10万円ちょっとの極貧OLでした。その中からアパート代、レッスン代、生活費でもうかつかつの生活。月末は本当に生活苦で大変でしたが、いろんな人に助けてもらいながら生きていました。
そんな生活苦でありながらもフラメンコだけはやめることはなく、ますます想いは強くなり、どうしても本場スペインで踊りを学びたい!という気持ちがどんどん強くなっていき、ぎりぎりの生活をしながらも、わずかなボーナスには一銭も手を付けず、4年かけて100万円貯め、会社を退職し、晴れてスペインに10カ月短期留学し、毎日7~8時間のレッスンにあけくれました。
もちろんスペインでもぎりぎりの生活でしたが、本当に毎日が貴重で楽しい日々でした。
衣装屋としての決意
レストランでのショータイムに出演- すっからかんになって帰国してからは、生活費、アパート代、レッスン代を稼ぐためにできることは何でもやり、踊りもセミプロとして、都内のレストランや劇場で踊る仕事もいただき、忙しく、貧しかったけどそれなりに充実していました。なんといっても踊りの仕事が終わった後に仲間と飲むビールは最高!そんな中で自分のフラメンコ衣装を作っている時は本当に楽しく時間を忘れてしまうほどで、そのうち仲間からも注文がくるようになり、それが評判となって口コミが広がり、全国のお客様から注文がぼちぼちくるようになりました。それで1985年に当時の相棒、益子美江さんと一緒にナジャハウスを立ち上げたのはいいのですが、仕事はどんどん忙しくなり、大好きな踊りと衣装作りの両立が難しくなり、どうしょう!と考えている間にも注文がくるのでそれをこなしているうちに、踊りの仕事も段々声がかからなくなり、自然と踊りは断念せざるを得ない状況になりました。
しばらくの間は踊りを忘れられず、ぐらぐら揺れっぱなし。
しかし、あれもこれもできるほど器用な人間でもなく、中途半端な自分もいやでついに「踊りは自分のなかで完全燃焼できているので後悔はない!」・・・・と思う事にして、それ以来、自分は衣装屋として生きる決意をしました。
衣装に対する想い
私はダンサーではなく、裏方的存在の衣装屋さんを選択しましたが、自分を表現するということに関しては、ダンサーだろうが、衣装屋だろうが関係ありません。私は、衣装作りを通して自分を表現しているのです。
設立当初は、ただただ衣装を作りたい!デザインがしたい!という自分が満足したい欲求のほうが勝っていたと思います。しかし、そのうちそんな感情はどんどん変化していき、自分の満足というよりお客様の満足に気持ちの軸が移ってきました。
お客様の満足と一言で言っても、お客様の数だけ満足の形も違います。更に言えば同じお客様でもその日の気分で満足の形が変わります。
そんな1人1人のお客様の気持ちを満たすことが目的になると、とてもじゃないけど今回の人生だけでは達成できることではなく、終わりのない果てしない行為ではあります。
終わりがなくゴールも見えないのでちょっとめげてしまうこともありますが、一つ一つミッションをクリアするとその分人間的なステージは上がるような気がします。
お客様が当社で決して安くはない衣装をオーダーなさるにはいろんな理由や感情が入り交っていて、どうしてうちで作る必要があるのかを理解するところから始まります。
それを解決することは私にはできないけれど、それを理解しているか、していないかで衣装作りに大きく左右します。
例えば、健康に問題のある人には、体に負担をかけないような軽さにして、踊っていてストレスを感じないようにするとか、失恋して心にぽっかり穴があいてしまった人には思い切りチャーミングな衣装を作ってあげて、みんなに褒めてもらって、開いた心の穴を少しでも埋めてあげるとか。
たかだか衣装作りにおいても出来ることはたくさんあるのです。
再び挫折
仕事に専念しているうちに私も良い年になり、晩婚ではありますが結婚もし、子供にも恵まれました。夫婦で協力しながら必死で子育てと仕事を両立させてきましたが、残念なことに夫婦生活は長くは続かず、離婚をしてしまい、シングルマザーの道を歩むことになりました。
息子は父親が大好きで、いつも父親に抱っこしてもらっていたしお風呂もいつも一緒。寝る時も父親の布団によく潜り込んで、本当に仲がよかったのです。母親の私からみても本当に微笑ましい父子でした。
そしてある時突然、父親が出ていくことになり空っぽの部屋を初めて見た時の息子の姿を私は二度と忘れることはありません。
健気にも涙を見せまいとたまたま持っていたバスタオルを頭からかけて顔を隠しでも体は大きく震わせていて、私はそんな息子がかわいそうで、そして、大人の都合でこのようなことになり、申し訳ない気持ちで心が張り裂けそうになり、2人でしっかり抱き合って泣きました。
そして、このタイミングにそれぞれの理由で8人いたスタッフが半分辞めてしまい、ただでさえてんてこ舞いの忙しさだったのに、頼れる親や親せきも近くにいないので子育ては1人でしなくてはならず、シッターさんだけが頼みの綱でした。
スタッフが半分やめても仕事は減らないので、自分が動くしかなく、そうはいっても4人分は動けず、毎日が辛くて辛くて、身も心もボロボロでした。
ただただ必死で、どうやって乗り越えたかなどは覚えていません。
父親の存在
私には尊敬できる人がいて、それは私の両親です。母親はすでに他界してしまいましたが、母親にはなんでも打ち明け、彼女は優しくずっと私の話を聞いてくれました。
母親が他界した後は、今度は父親が私の話し相手になってくれ、一緒に涙を流してくれたり、一緒に山や海に出かけて気分を紛らわせてくれたり、どれほど父親に救われたかわかりません。口癖は「頑張っていれば、いつか必ずいいことがあるよ。」
そんな父もすでに亡くなりましたが生前の父は本当にいつも人のことばかり考えて、周りにいつも気を配り、幸せにしてあげる徳の高い人でした。
父にはまだまだ遠く及びませんが、少しでも近付きたい目標の人です。
そんな両親のお陰で今の私があるのです。
今だって決して楽なわけではなく日々苦労しています。
商売も決して上手ではないので、うまくいかず、うつ病になり、死んで楽になりたいと考えた時期もあります。
でも仕事だけはやめたいと思ったことは一度もなく、むしろ衣装を作っている時は
癒されていたのかもしれません。お客様に喜んでいただくことで自分が救われていたんだと思います。
これからもいろんな試練が襲ってくることでしょう。
でもお客様の1人1人の笑顔を想い浮かべながら衣装を作っていくことで、前に進めると信じています。
これからの活動
小島章司さんとスペイン人ダンサー練習風景- 最近は日本のフラメンコの代表的存在、 小島章司氏の舞台公演で招聘するスペインのトップアーティスト達の衣装も手掛けスペイン人とは違う感性に高い評価をいただいています。2012年の9月にスペインで世界最大のフラメンコフェスティバル「ビエナル」に小島氏が招聘される快挙を遂げ、その作品のほとんどの衣装を担当させていただき、日本のフラメンコ文化の底上げに少しだけでも貢献できたらと思っています。
また今後は、初級者の方たちにも少しずつ、きちんとした衣装の着方とか、メイク方法とか、ステージに立って恥ずかしくないようなアドバイスをしていきたいなとも思っています。
ですから、どうか安心してどんなことでもご相談ください。彼女たちに解決できなければ私がなんとかいたします。
出来ない事は、できないと正直に伝えます。
私達の願いは皆さんに自信をもってステージに立ってもらいたい。それだけです。
ナジャハウス代表立川広子
追伸
(ナジャハウスの庭にて)- 50歳を過ぎてこれからの私の仕事は、自分のスキルを人に伝えることです。まず、スタッフに引き継いでもらい、スタッフの一人ひとりがプロ意識に目覚め彼らが今度はお客様を幸せにしていく番です。これだけは誰にも負けないというレベルにまで育ってもらい、本当の意味でプロ集団となってもっともっと多くの貢献をしていけたら、こんなカッコいい、そして幸せな人生はありません。そして、この小さな小さな幸せの連鎖をどんどん広げていけたらいつか日本はもっと元気になるし、病んでいる若者や子供だって本来の明るさや天真爛漫さを取り戻すことだってできると信じています。
こんな途方もなく大きな夢をいだきながら、日々小さな努力を積み重ねていくことが大切なのではないでしょうか?